「生まれてきてよかったですか?」って話を聞いてきました(再執筆)

2か月以上前のことですが、哲学カフェというものに参加してきました。
集まった人達で話したテーマは「生まれてきてよかったですか?」
なかなかリアルでは聞きづらい(そんなこともない?)、自分以外の人の人生観…。
今でも、ふと思い出すこともあるので、振り返りながらまとめておくことにしました。
そもそも哲学カフェってなに?
ひとつのテーマに対して、参加者みんなで話して聞く集まりのこと。
私が参加したのは「哲学って難しそうだなぁ」「哲学…哲学書って読んだことないぞ」という方も参加してOKな会。
中には、哲学書を読んでの解釈を話す会もあるようです。
参加しようと思ったワケは?
超個人的ツイッターアカウントで、とあるツイートを見ました。それは「自殺防止のポスターについて」
私自身がそのポスターのコピーに思うことを呟いたら…とある哲学カフェの運営さんにフォローされまして…。
「哲学カフェ?こういった集まりがあるんだ」と興味を持ち、調べたら直近で集まりがあるじゃないですか!
しかも、タイトルにもある「生まれてきてよかったですか?」というテーマは個人的にとても気になったので参加することにしました。
哲学カフェの参加者とか雰囲気ってどんな感じ?
今回の参加者は、なんと30人以上!いつもは10人前後が多いようで、主催者さん達もびっくりされてました。「椅子が…椅子が足りなくなる…」って。
年齢層は幅広くて、下は10代から5、60代と幅広い方々が参加していました。
どんな流れで進むの…?
ざっくり説明すると…
①まずは、テーマについて現時点での考えや思いを発表します
②次は、テーマについて思ったことや他の方の考えを受けて思ったことなどを発表していきます
③最後は、またテーマについて考えや思いを発表します
(最初と最後で、考え方に変化があったか、他の方の話をきいてどう思ったか…などなど。)
①と③は、先着参加者のみ。②は、その場にいる人みんなで。
参加者全員が絶対に発言しないといけない!というわけではなく、聞くだけもOKでした。
私は、ただひたすら聞いてメモを…。
生まれてきたこと、どう思ってる?
「ただ聞くだけじゃもったいないな」と思っていたので、自分なりにテーマについて考えました。
「生まれてきてよかったですか?」に対する、私のこたえは「よかった とは言えない。言い難い。」
なぜなら、自分のことを”幸せ”とは思っていない、言えないから。
私は、自分の”幸せ”が”わからない”から言えないのだと。
それはきっと、過去からのしがらみがあって、マイナスだから。
過去をもとに考えているから。
あと、今が幸せとして、未来の”今”は幸せなのかなぁ…とか、脱線したことも考えてました。
他の人たちは、どうなんだろう
ざっくり分けると「生まれてきてよかった」「生まれたくなかった」に分かれるのですが、どちらかといえば「生まれてきてよかった」と考えている方のほうが多かったです。
「生まれたことには意味がある」「死ぬ間際に”よかった”と言えたらいいな…」という言葉もありました。
印象的だった言葉 「なんで生んだの?」
ここからは、私個人が印象的に感じた言葉と、その言葉から思ったことをピックアップします。
ひとつめ…とある方の言葉。この方は、親御さんとのやり取りを話してくれました。
母親に尋ねたことがあると。「なんで自分を生んだのか」って。
母親はのこたえは…「子どもがほしかったから」
「その子どもは、別に”自分”じゃなくてもいい。ということなのかと思うと悲しくなった」すこし沈んだ声色を覚えています。
生まれた存在が”自分”である必要性
私も、似たような問いを親にしたような…なかったような…。過去を掘り起こしてました。小学校の特別授業か道徳であったような…。
あーいう授業って、美化して受け取りますよね。親も子ども自身も。
ただ、まぁ…良くも悪くも達観していたようで、私は「生殖行動をすれば、人間から人間…子どもという物体ができる。それは別に”私”である必要もないな」と思っていたような…。
言い方が悪いですけど、結婚した両親…とくに母親から見た私の存在って、親類関係からの「子どもはまだか、後継ぎはまだか」コールを(一時的に)避けられる存在だったんだろうなと。(残念ながら女なので意味なかったのですが)
そう。私自身も”私”を望まれたわけじゃないんですよ。ただ単に結婚したから”子ども”という存在が必要だった。
私自身は、私が私である必要性を感じていないみたいです。
(これがこじれて、私は自己否定に苦しんでいるところがあったり…。必要がない=いらないって。)
「自分がいることは奇跡」
またとある方は「生まれたこと、”自分”がいることは奇跡的だと思う」と話してくださいました。
残念ながら親はもう亡くなってしまったけど、お墓参りに行ったり、写真を見ると感謝の想いが湧いてくると。
奇跡か、ただの確率か
正直、私は斜に構えた視点で思いました。「あぁ、こう考えられる人は”幸せ”って言える人だろうな」と。憶測ですが、自分を肯定できるということは、自分の生を受け入れていると思うんです。
私自身は、生まれたことも、私が私であることを”奇跡”とは考えられません。
そうですね…極端ですけど例えるなら…天秤が傾いただけです。
子どもを「つくる」「つくらない」の天秤があって、たまたま「つくる」に傾いた。
さらに「子どもができる」「子どもができない」の天秤があって、「子どもができる」に傾いた。
そこから「うまれた」が傾いた。ただそれだけ。それくらいの認識です。
こういうこと書くと叱られそうですが、親に対する感謝の想いも特に…。罪悪感ならありますけど。
自分の存在を奇跡と思える方が、ちょっぴり羨ましいです。
自分の命と向き合っているか
「生まれないほうがよかった。は自分の命と向き合っていない。生きることに怠惰だと思う」この言葉、 哲学カフェに参加してからもずっと、頭に残ってます。
もうね、この言葉が耳に入った瞬間にうなずいていました。「あ、これ私のことだ」って。まるで、誰かに自分にまつわるクイズを出して、当ててもらった時のような感覚がありました。
怠惰をむさぼり生きてきた
「生きることに怠惰」もう本当にこの言葉が私にドンピシャなんですよね。
私は…子どもの時は早死にしたい。と思っていましたし、ことある度に「ここ(学校の2階の窓)から”自然に”落ちれたら…」とか考えてました。
今の死生観だと死にたい通り越して存在を消したいです。
自分の生に対して、特に価値も持っていないし、重要視もしていない。生きることの目的も…。
仮に目的とか夢があっても、ムダに思えちゃうんですよ。
根っこで、自分にはなにもない。ムリだと思い込んでいるから。
そして、そう思っていることが、ものすごく苦しい。
生きていたくないのに生きてる。でも、なにもできない。
「ただ単に、生きている(らしい)から生きているだけ」の私は「生きることに怠惰」の言葉に反応したのだと思います。
今、改めて「生まれてきてよかったですか?」にこたえるなら…
「自分は唯一無二の存在」「辛いこともあったけど生まれてよかったとは思える」「子どもの頃からマイノリティで疎外感を抱えているから…」
哲学カフェでは、ここには書ききれないくらい様々な考えや思いをたくさん聞きました。
約2時間…対話を終えて、改めて「生まれてきてよかったですか?」にこたえるとしたら…?
私は「やっぱり”生まれてきてよかった”とは言えない」と言います。
ざっと15年以上は思っていたことなので…。大きく変わることはないです。今のところ。
いずれは… 「生まれてこなくて”も”よかった」
って言えるくらいには”生”を受け入れられたら…と思ってます。
これも…どなたかの言葉なので借り物ですけどね。
おまけ:再執筆していて改めて思ったこと
哲学カフェに参加して2ヶ月後に、この記事を再執筆していて思ったことを追記します。
受験という言葉の圧力が、自分が思っていた以上に重い
高校にしても大学にしても、受験の圧力って重いな…と。数名の方が受験の失敗が苦しかったと話していたんですよ。
みなさん共通して「受験前は自分も(親きょうだいと同じように)王道を行くものだと、当たり前に高校や大学に行くものだと思っていた」と…。そうですよね。それが世間一般の当たり前ですもんね…。
「人生の主人公だと信じてた、充実してたのに…」「家も、どちらかといえば裕福で…」それでも「失敗」した。
受験って 「成功」か「失敗」かの2択しかないよな…と考えると、なんとも言えず…。
私は、受験自体を「どうせムリだ」と諦めていて、ありとあらゆる受験や就職から逃げて生きてきたので…。
生まれてきたことを、どんな視点で見ているか
また考えてみました。「生まれてきてよかったですか?」って。
哲学カフェに参加して2ヶ月が経ち、今の自分がどんな見方をしてこたえるのか。気になったもので…。
今のところのこたえは…
「子供のように純粋に”生”を受け入れることはできないし、生きることを消化して糧にできるほど達観してもいない」です。
…今はまだ、どうあがいても生まれてきてよかったとは思えません。受け入れられません。かといって生きづらさとか、過去のあれこれを自分の力にも出来ていない。という…。
良くも悪くも、生きているようです。
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