頑張れないというか、頑張り方がわからない。
頑張れない、ニート、学習性無力感(無気力)、自己否定……。近頃、こういった単語からこのブログに来てくれる方がいるようで……。ありがとうございます。でいいのかな。
それだけ似たような状況の方が多いのかな、と勝手に思ってます。
私は今、特になにもしていない人です。ニートってやつです。完全に親のスネかじってます。
(稼ぎといえば、身内の農作業を手伝ったくらい)
要するに、カッコ悪いやつ、です。
望むものはココにはない。書けないから。
うーん……。筆(この場合は、手?)が重いです。
きっと、学習性無力感からの抜け方、乗り越え方、克服方法を書けたらいいのでしょう。
少なくとも、ココにたどり着いた方は“そういうもの”を望んでいるのだろうと……。
残念ながら、この記事にそういった“未来を見る、前を見る方法”はこれと言ってありません。
なぜなら私自身が、未来を見ていない(考えきれないとも言える)し、前の見方をしらないし、あまり見たいとも思わないから。
諦めたわけではない。はじめからないのだ。
学習性無力感(無気力)について調べていると“諦めている”“あきらめ”という言葉に出くわします。
諦める……もうダメだと思うこと。
「自分はもうダメだ……」別に定義がどうのこうのというつもりはないのですが、どうも“諦め”だと私にはしっくりこないのです。
“あきらめる”少なくとも、挑戦したんですよね。なにかやってきたんですよね。
なんといいましょうか。まだ“改善できる”“どうにかすれば頑張れる”“いい方向にできるかもしれない”という匂いがするのです。
かといって“投げ出している”も違う。
“興味がない”“関係ない”は少しだけ近い。
比較的しっくりくるのは“どうでもいい(どーでもいい)”です。
自分のこと、己のことです。
だけど、当事者意識というものが湧いてこない。感じられない。どこか遠いことのように思える。
だから“どうでもいい”のです。
どうでもいいことは、めんどうだ。
ところがそうも言ってられない。
わかっちゃいる。けれども、そうしていると今度は“めんどくささ”が勝る。
そしてまた、どうでもよくなる。
いや、よくないこともわかっちゃいるのですけど。
生きるのって一番めんどくさい
話がぶっとびますが、たまに“生きるのも、どーでもよくなる”のです。
けれども、首をくくる勇気と度胸はない。
(あと、やっぱり死ぬのもめんどうなんですよ。正しくいうと、死んだ後の処理。人様にやってもらうわけにはいかないけど、現実は難しいじゃないですか……。)
私、この歳まで生きるつもりじゃなかったんですけどね。
皮肉なことに、こうしてうだうだ文句垂れている人間の方が残っちゃう。
あゞ無生。あゞ無情。
生きているだけではダメらしい。生活しなきゃいけない。
とりあえず息を吸ってれば、生きてはいられる。生存はできる。
しかし、生活は全く別。人として社会の中で生きていかなきゃいけない。
となると、業がいる。最低限を保つためのものがいる。
そのためには———。
なにか得意なことがあるわけでもない。
突飛したスキルを持っているわけでもない。
“できること”がない。
“ない”部分を、凹みを埋める気もなく。
かといって今ある自分を磨く気も、高める気も、深める気も湧いてこない。
だって、いずれ死ぬでしょ?ってね。
自分を今更どうしろというのだろう。頭の悪い博打じゃない?
……さすがに「いずれは死ぬのに無駄じゃない?」と思わないにしても、無駄に感じるのです。
自分に対して頑張ることとか。やったところで、たかが知れてる。
こうなってくると“頑張り方”もよくわからなくなります。
頑張る……とは?一所懸命になる、努力する……。
なんかもう、そういうエネルギーとか、熱がないんですよ。
変な話、子どもの頃とか勤めていたころは頑張っていた……とは思います。
どこまでやったら“頑張った”なのか、ちょっとわからないですけど。
なんでしょうね。“頑張るための仮面”がうまく被れないのです。
今までは、すくなくとも1年前までは、なんの違和感もなく被っていた……と思うのですけど。
その仮面があったから、多少なりとも社会人に紛れ込めたのかと……。
ガタガタの過去とグラグラの現状とノイズの未来
人間、環境を変えると“ストレス”になるようです。場合によっては、良くも悪くも。
そのため多くの人が“現状維持”にこだわると。今のままでいい。と。
私も、そういう人を多く見てきました。私自身も、どちらかといえば“そっち側”です。
その分だけ「そうだろうな」と強く思うことがあります。
それは“人生を変えたい”で調べたらよく出てくる3つの言葉です。
・時間の使い方を変えろ
・つきあう人を変えろ
・住む場所を変えろ
要するに“環境を変えてしまえ”ってことですよね。そりゃ生活が変わるわけですから、変わらざるをえない。
「そりゃそうだろ」と思うのです。……うん。自分が“思うだけ”で終わることもわかっているのです。
家……とりあえずの建物。家族……。金が縁の切れ目だとは感じてる。
私の場合、居心地がホントウにいいのかはおいておいて、衣食住が今のところはあるんです。
つまりはパラサイトin実家。
……一応、また稼げるようになったら家に対して滞納している分のお金を払うつもりではいるんですよ。
2019年11月現在で¥1,105,000(概算)
そのうち70万くらいは、親が作った借金……の債務整理代ですけど。
私、なにに生きているんでしょうね。
個人的にはうまいことなにごともなく死んだら、生命保険がおりるはずなので……。
まぁ、それで返済してくれていいよと思っています。
ただまぁ、あんまり外に出ることがないので、うっかり死ぬ確率は低いだろうなとも思っています。
今を認識できるほど、自分を見れるほど強くなかった。
私、自分が弱いってことを、もろい存在だということはわかっているんですよ。
たぶんもう、傷つきたくない。傷ついてしまう自分が嫌いだし、こわいんです。
なにもしなければ、なにもなければ、なにもおこらない。
下手すると、今が一番落ち着いているのかもしれない。自分を置いておける状況なのかもしれない。
言い方を変えれば、利用できるものをいいように利用している。
結局、なるべくしてなった。自分で選んだだけなのかもしれない。
「どっちでもいい」「どうでもいい(どーでもいい)」「めんどくさい」
10歳ごろから、そんな言葉を認識するようになったと思います。
一時期、なにに対しても「めんどくさい」ばっかり言っていたので、親に注意されたことがあります。
けど、めんどくさいものはめんどくさい。
今は……そもそも、めんどうだと思うことをしていないので、とくになにも。
ただ、そういったものを“しこり”として持ったまま、今にきてしまったから、結果的にこんな状況(状態)にしたのだろうと思います。
で、どうするかというと……どうもしない。
一時的な無気力も、学習性無力感(無気力)も治すためには(?)「行動しろ」「動け」とあります。
やる気を出してから動くのではなく、動くから“やる気は出る”みたいなやつですね。
が、動けたらこうはなってない、ならないのです。
「これから動けばいい」
……なんで、いまさら動かなきゃいけないの。
「動かないとこれから(将来)が大変になる」
……うん。そうでしょうね。
「甘えてんな」
……そうですね。甘えてますね。ごもっともだと思います。
……。自分がいろいろ言われたら、こう返してしまいそうです。
もうね、現状が良くなるとか、これから良くなるとか思えないんですよ。
ほんと、どうでもいいって思っちゃうんです。
ダメなのにね。
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