ビックリするほど頑張れない「学習性無力感」になっていることに気づかされた話(再執筆)

2019-10-10

学習性無力感

「頑張ろう」「頑張らなきゃ」これらの言葉は、なにかをしようと思ったときや、ちょっと上手くいかなくて気合を入れたいとき…わりと自然に出てくる。そう認識されている方も多いのではないでしょうか。

そして、言葉通りにちょっとでも頑張ることができるのって、実はスゴいことです。


…もしも、どんなに頑張っても頑張っても上手くいかなかったら…?
上手くいかなくて助けがほしいのに、ヘルプを出せない状況が続いたら…?
やがて「失敗した」「ムダだった」って気持ちだけが、ずっと残ったら…。

頑張り方がわからなくなるころには、“頑張ることはムダ”“どうせできない”という思いが刷り込まれます。
今回はそんな状態…学習性無力感(無気力)についての話です。

ちょっとした身の上ばなし

私、数ヶ月前から、とある試験の勉強をしていました。
…だいぶ前(去年)に転職を考えていて「知識だけでも…!」って思っていたんですけど…。

そもそも論をいうと、転職そのものにムリがあり、精神的にもおかしくなって勉強するのにも一苦労しました。

そして結局、試験は受けませんでした。
その代わりに、パァになった受験費約6000円で自分が学習性無力感(無気力)になっていて、しかも長年苦しんでいたことがわかりました…。
”苦しんでいたことにすら気づけていなかった”ということにやっと気づけたので、まとめておくことにしました。

そもそも…学習性無力感(無気力)ってなに?

はしょって簡単に説明しますと、なにもしなくなります。できなくなります。

他人から見て、なにかできる状態に見えても、やりません。やれません。

私個人の体感ですが、自分の意志で「しない」と決めるのとは少し違います。

頑張れないんです。頑張り方なんて、もうわからないんです。
無理やりやっても“ただ、やっているだけ

不思議なくらいに頑張れません。

それでも騙し騙しやっていると、頭も身体も鉛のようにさらに重くなります。息が止まります。
脳みそだけが金縛りにあうように、なにも入ってくれないのです。


(ちなみに学習性無力感は、学習性無気力、学習性絶望感など他の言い方もあるようです)

「学習性無力感」だとわかったきっかけ

私の場合は試験勉強をしていた時に、自分に対して思う感情があまりにもおかしいと気づいたのがきっかけです。

ちなみに試験を受けようと思ったのは…

ちょっと話がそれますが、私は昨年(2018)年、転職活動をしていて、とある会社の面接に行きました。

いきなりの社長面接(ちなみに2回目)を受けていたとき、社長さんは私が試験勉強をしている点に反応してくださいました。「この業界に興味があるなら取るといいよ。客観的な判断になるから」と。私は「はい。頑張って取ります!」と答え、心の中で自分に言い聞かせました。「(たぶんコレが最低ラインだから)頑張らなきゃ…」って。
まぁ、結局採用落ちましたし、色々あって転職そのものを諦めました…(ダメなやつ)

「やるのか」「やらないのか」

年も変わって転職すら諦めたくせに、頭の中には試験のことがずっと残っていました。
「今さら頑張ってもね…」「でも、取るって言った…」「もう、やっても意味ないやん…?」「けどなぁ…」脳内で何回このやりとりをしたかわかりません。

この時点で諦めているのに「やらなきゃ」って考えていたんですよね…。
最終的に私がとったのは今さらやってもムダだろうな。と思いながらも、他人に「取る」と言ったからやるという選択。

言われたからやる。というものではなく、「取る」と他人に言った自分をどうにかしたくて勉強を始めました。

何もしないのも、それはそれで居心地が悪かったんです。

あれ、なんか変… 頭に何も残らない…なんで?

お恥ずかしながら、自分で参考書買って勉強することは初めてでしたし、勉強そのものが久しぶりのことでした。
今までなんとなく知っていたこと、使っていたもの、ぼんやりとしたものがハッキリと繋がる感覚は本当に久しぶりで、ちょいちょい楽しかったのは事実です。

でも、壊滅的なくらい、なにも頭に残らない。


「覚えなきゃ、理解しなきゃ」って手を動かしても、声に出しても、過去問解いても(知識が頭に入ってないから解けないんですけど)上手くいかない。
気づけば頭がもやもやしてノイズまみれになってフリーズして、引きつった笑顔で泣いてる感覚がありました。「え?なんで?なんでこんなに?は?」って。

「ほらね、やっぱりダメじゃん」聞こえていた声に聞こえないふりをしていた

「私、こんなに頭悪かったんだな」って思いながら勉強していました。いや、もう勉強しているフリに近かったのかもしれません。
頭の中は、濁ったもやとノイズまみれで、とても重たくなっていました。

頑張らなきゃいけないのに、頑張れない。
そんな自分を認識すると、言葉が出てきました。

「ほらね、やっぱりダメじゃん。どうせムダじゃない。」

自然に出てきたひと言でした。
それもそのはずです。その言葉は、私がずーっと…人生の半分以上は抱えてきた感情だったのだから。

『いつから諦めるのが上手になって当たり前になったんだろう』

頑張っても、どうしようもなかったので、今回の試験は合格できないことを知った。
(受けることすら諦めた)

去年、転職を諦めた。
4年半、小さな会社で働いていたけど、私が潰れちゃった。転職しようにも、私の経歴じゃ何もできそうにないらしい。
肩代わり状態の借金返済(債務整理)に、当たり前のようにお金を出すのが辛かったなぁ‥。

学生の時、休学を経験して正規の就職活動から逃げた。私にはムリだなと。積極的に私を欲しがる会社なんて無いと思った。
『就職』の、たった二文字の単語が怖かった。
就職の意志登録が人より遅かった。休学した自分が、なんの成果も出していない自分が「私はこんなことしたい!できます!」ってアピールできるわけないじゃん。って思っていたから。(実際、私は何もしていなかった)

高校生の時、まず大学進学を諦めていた。「こんな学力で大学進学とかムリでしょ」って言ってた。
ピアノを習っていて、先生から「音大どう?」って言ってもらったけど「別に上手くもない自分が通るわけない」と思ってた。
習字も…とある大学に興味を持ったけど「一番上の級(=段位)を取れていない自分にはムリだな」と諦めてた。

中学生の時に不登校になった。中高一貫校だったから、このまま進学しても勉強についていけなくなって留年するなー…って思っていた。かといって、 高校受験して学校を変えるのはムリだと悟って、高校の時点で編入するという卑怯な手を考えた。

小学生の時、不登校になった。この頃から何かがおかしくなった。それまで出来ていたことができなくなってた。
このときから自然と頑張れなくなって、”やってもムダだろ”って言うことが多くなった。
自分の中で家庭問題が表面化した。だけど、子どもだったから、どうしようもできないことも知ってた。

幼少期の頃、あることが原因で保育園の先生に嫌われた。嫌われた人との仲は、どうにもならないことを知った。

どうにかしようにも、どうしようもできない

なにかを諦めたことって初めてじゃないなぁ…と思い出しながら書き連ねてきましたが…。
私、節目節目(?)で色々と諦めてますね…。
もう20年以上も前のことも影響しているみたいです。「は?」って思われた方もいらっしゃるでしょう。私も「は?」ってなってます。

でも事実。あったこと全部が、こじれにこじれて諦めに繋がっているんです…。
悲しいことにね、自然と諦めちゃうんですよね。
諦め…というきれいな言葉よりも、投げやりのほうが近いかもしれません。

一瞬でも「やりたい」と思っても、頭にノイズがかかって身体が動かなくなるんです。
抜け出せないところまできているのか、涙がでることもあります。

やりたかったことも、したいこともあるはずなのに、「やりたい、したい」って思えない。
頑張り方も、もうわからない。



今はもう、なにもしたくないって、思っているのかもしれません。

学習性無力感を自覚したわけだけど…

私は試験勉強をきっかけに、回りに回って、自分自身が学習性無力感に苦しんでいるということに気づきました。
ついでに色々と、性格の問題やらも絡まっていることもわかりました…。

さて、ここからが問題です。疑問です。

学習性無力感って治せるのでしょうか

学習性無力感の克服方法はあるらしい

調べてみると、克服方法はあるみたいです。

手っ取り早く言うと「ほらね、やっぱりダメじゃん。どうせムダじゃん。」という考え方を変える。

……。それが簡単にできたら、こんな苦労はしてないんですよね…。
(と自然に思ってしまうのがコレの悲しい点です。自分に対して、希望とか持てないんです。)

具体的にどうやって克服するの?

学習性無力感の克服方法は1つではなく、色々とあるようです。

その1 リフレーミングをためす
リフレーミングとは出来事や物事を別の視点で見ること

よくあるのが、「コップに半分、水が入っている」としたら…
「あと半分しかない」と捉えるか「まだ半分もある」と捉えるか。
一方の見方で見たら、別の見方や捉え方を考える。

短所を長所に言い換えるにも通じるものがありますね。

自分の出来事に当てはめると…あー…うん…。難しいですねぇ…。

その2 小さな成功体験を積み重ねる
自己肯定感(自己効力感)を高めることが大切とのこと。

自分の行動を受け入れる。どんな小さなことでも褒める。

…そもそもの自己肯定感が低い人間には難題ですね…。
行動や目標は、めちゃめちゃ小さくしてOKのようですが、「ここまで細分化しないとダメなのか」って思う私は…。

その3 とりあえず、その時の感情を認識する
今の私は、ここが精一杯のようです。
「どうせ…」と諦めが出てきたら、「あ、どうせ…」って思い始めたなぁと認識する。
感情を認識する経験を重ねて、『私、自分の感情を認識できてる』という成功体験(?)を積むしかないようです。今のところ。

学習性無気力とどう付き合う?

人生の半分以上、学習性無力感を抱えていたことを考えれば今すぐに無くす、克服するというのは無理な話でしょう。
正直、完全に消すというのはムリだろうなって思ってます。

だけど…こうして気づけたということは、自分の中で”どうにかしたい”、”抜け出したい”って気持ちのあらわれだと信じたい自分がいるのも事実。

だとしたら、学習性無力感とどう付き合っていけばいいのかくらいは考える必要があります。

私の場合は、大きく分けて2つ。
1つ目は、瞬間的に湧いてくる「どうせ…」と向き合わないといけません。
これは、その時その時で「あ。どうせって思い始めた」と気づく体験を積みます。
「自分の感情を認識できてきたんじゃない…?」って思えるようになれれば良いかなと思います。

2つ目は、根本的にある無力感…過去の傷と向き合う
…こっちを解決しないと、本当に克服できるとは言えないでしょうね。
ざっと思い出して、あれだけの諦めエピソードがあって、今だに引きずっていることがあって…。
正直、今はまだ過去のあれこれと、どう向き合えばいいのかわかりません。
(本当はカウンセラーさんに相談したりしたほうがいいんだろうなと思ってます。)

変わることを選べば、嫌でも自分の大嫌いな部分と向き合わなきゃいけない。
変わることへの恐怖と不安とも一緒にいなきゃいけない。

反対に…このまま…変わらないことを選んでも、きっと苦しい。
自分でも”変われるのかもしれない”と、どこかで思っているから。
(そして今、とても苦しい。)

思うがままに書き連ねましたが、ひとまずは…自分が苦しんでいることがわかっただけでも良いことにしたいと思います。

ぼちぼち、自分で自分と向き合うしかないから。