自己否定する自分を、さらに否定してしまう話
「得意なことって、なにかある?」この質問にどストレートに答えていいのなら、私は「自己否定」と答えます。
全自動自己否定機といっても過言ではないくらい、得意です。とは言いつつも、内心は止めたい、辞めたいとも思っている。けど、それが上手くできないのです。
自分自身で『良いことではない』ことはわかっているので、多少は調べて対処法を見つけます。
問題はココからです。
「さぁ、こっから…」と瞬間的に気力をだすものの、すぐに消えます。
「このままじゃ、しんどいんだよ…!」って、どうにかして再度自分に気合を入れます。
…あっという間にどうどう巡りのはじまりです。
今回は自己否定している瞬間に、自分が自分のことをどう考えているのか、また自己への否定感情をどうすればいいのか考えてみました。
自己否定する私を、私はどう見てる?
私が「はぁー…これもまたムダやん…。もう疲れた…」思考になってしまうのは、ずばり自分に対する考え方・感じ方がひねくれているから。
まぁ…自覚はありましたが、こうして文章にすると余計にダメージがありますね…。
ありのままの自分を…?
自己否定の話が出ると自己肯定感…「ありのままの自分を受け入れましょう」なんていう言葉と出くわすことがほとんどです。
自分のことを「受け入れられる」「受け入れられない」自分はどちらなのか。
はたまた「そんなこと考えたことない」パターンなのか。
自己肯定と自己否定をまとめてみたついでに、自分のことを見つめました。
私はわたし。そう、オンリーワン!
自己肯定…読んだ字のまま、自分を受け入れられる状態。たとえ自分に弱い部分があったとしても、それすら受け入れて前を向ける人。青空を見上げられる人。心の状態はフラット~+(プラス)なので、安定しているのではないでしょうか。
私なんて…。だからどうしろと?
自己否定…読んだ字のまま、自分を受け入れられない状態。自分に弱い部分があったら、そんな自分はダメだと思い込みます。なんの疑いもなく。自分のことは世界で1番信じられないけど、自分のダメな部分はわかりきっているつもりなので信じるも何も「そうです」と言い切ります。心の状態は ー(マイナス)なので、とても不安定です。
自己否定すると…続けてしまうと…
私個人の場合ですと…。自分にとってという言葉の「自分」が謎です。自分迷子になり、”自分がない→ダメなやつだ…”状態になってしまいます。
「なにかやってみよう」と仮に動き出せたとしても、常に不安がつきまといます。自分で正しく判断することが難しく、他人の評価が「やるorやらない」の評価基準になってしまうから。
それに加えて、視野が狭まるので客観視ができなくなります。自分は、自分は…と内側にこもってしまうので、なかなか外を見ることができません。外を見たとしても、自分と他人を比較していまいます。そして、すさまじい劣等感を自分で自分にぶつけます。
また、自分で自分を否定していてカスッカスなのに、人間としては存在しているので、生きてることに矛盾を抱え込みます…。しんどくなります。
ひと言でいうなら、面倒なヤツです。
なにが原因で、自分自身をそこまで追い詰めるのか?
原因というやつは、いくつもの要因がくっついている場合があるので「コレだ!」と断言するのは難しいかもしれません。
仮にですが、何か失敗してしまって「うわぁぁあ!自分はもうだめだぁあ」となっても、一息おいてから「なぜだ?」と考えて、「んじゃ、こうしよう」と改善点を出せる場合は大丈夫だと思います。一過性のものだと思うので。
問題は一過性ではない、ずーとつきまとう「自己否定」の場合。
こちらの場合は原因を探すのも一筋縄ではいかないようですが、幼い時の…心にヒントがあるようです。
幼少期を思い出して、自然のままの自分を受け入れてもらえなかったことはありませんか?
「本当は我慢していて苦しかった、相手(親を含めた大人)に合わせて疲れていた、褒めてもらうには頑張らないとダメだった…。」とか…。
私にもね、どうやらあるようです。平べったくいえば、癒えていない心の傷というものでしょう。
…心に傷を負った人間が成長し、自我がはっきりした頃には…とっくに自己否定に突っ走ってます。
ケガを…傷ついたのが幼ければ幼いほど、その時の対処がうまくできません。なぜなら子どもだから。むしろ知らなくて当然だと思うのです。
そんな頃に負った心の傷を、本人が感じないようにと押さえつけてしまったり、親を含めた大人に知らんぷりされたままだと…。
「自分は、その程度の存在なんだ」と、本能的に感じ取ります。
見ようにも見えない傷だから
そもそも心というものにカタチは無いし見えないので、傷を負ったとしても見えません。他人はもちろん、自分でも傷の度合いがわからなかったりします。
でも傷ついたという感覚は受けます。時と場合によっては、外傷と同じように傷跡が薄れることもあるでしょう。
反対に、年月が経てば経つほど『なぜだかわからないけど、見えない傷に苦しめられる』ことがあって、自己否定感も強いのならば、子供のころに受けた傷が今でも痛んでいるのだと思います…。
(ちなみに、大人になった今でも子供の頃の傷をひきずってしまう原因は、機能不全家族の中でそだったアダルトチルドレン(アダルトサバイバー)である可能性が高いようです…。)
自己否定はやめられるの?
「続けるか」「やめるのか」極端にいえば、この2択から選ぶだけです。
「あとは、あなたが決めること」そう。己で決めないといけません。決めたなら、決めた方向へ進んだ方がいいのでしょう。
…私はまだやめられていません。が、克服された方はいらっしゃるようなので、自己否定はやめられると信じたいですね…。
『自己否定する自分を受け入れられなくて自己否定する』ということ
自己否定するということは、自己肯定できていないのです。つまりは、自己肯定できるようにするといいのですが…。
これがまた、すったもんだあって、なっかなか簡単にはできません。
「自己肯定」「自己否定」でちょっと調べれば、自己肯定感を高める方法がたくさん出てきます。
例えば…
・自分の気持ちを把握するーこれはそうですね。自分がどういった状態なのか判断できませんからね。
・自分の気持ちを認めるーここでの認めるってこんな気持ちでもいいんだって思うことなんです。つまりは肯定。さっそくです。
・自分は大丈夫。できる!と思う!ー鶏が先か卵が先か?のようです。上手くいけば短期間で荒療治可能かもしれません。
・自分で自分を褒めてみるーうん。私が私にに対して褒めるって、素直に言って気色悪い(笑
・友達に自分のいいところを聞いてみるー……。仮に聞いたとしても、それを受け入れられ…というか、友達…。(私が友達だと思っていても相手はどうだろう?とか大変失礼なことを考え出します。)
……。私のめんどくささが強調されるだけになってしまいましたが、自己否定感の強い私はこうとらえてしまうのです。
自分を肯定する…受け入れることって、自分というものがあるのかないのかもわからなくて、仮にあったとしてもなかったとしても自分と向き合わなきゃいけない…。なんと言いましょうか【めたくなかった存在そのものがお前なんだと(当たり前なのわかっているのに)当たり前の現実を予告なく眼前に突きつけられるっていう恐怖があるんです…。
(要するに「こんなはずじゃなかったのに…」と思う=プライドが高い。で、「そんな自分はダメだ…」と自己否定を発動する可能性もあるわけです。)
私の場合は、今が辛いから、しんどいから、変われるのかもしれない、いい加減に変わらないとマズイって焦りの感情やら漠然とした恐怖と自分に対する諦めでごっちゃごちゃです。
いろんなものが渦巻いてます。「んぎぎぎぎ…!」って見えない重りに押しつぶされながら、歯を食いしばってる感覚です。私はね。
最後に…自己否定感とどう付き合う?
・自己否定というのは、自分で自分を受け入れられていない・認めていない状態。強まれば自分の存在そのものを否定する。(生きるのに疲れる)
・原因はシンプルに見えて複雑。要因には心…特に幼少期の出来事や環境が絡んでいることもあるので、傷ついたことへの対処が遅いほど、ややこしいことになってる…。
・いい方向に持っていくには、まずは自分の状態を把握するところから。いずれは自己否定に走る前に、ブレーキをかけられるように、軌道修正できるようにしたい…。
・(荒療治として)自己肯定感の高い方の真似を1ヶ月やる。無理やりにでも習慣化できれば短期間で自己肯定感を得られる…はず。
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